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2008年6月のアレ

まあ日記というのか、そういうものだ。

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2008年6月30日

nikkansports.com のブログに「世界一小さい新聞」というのがあって、 たまに見ているのだが、6月25日に「自作自演のコメント」というのがある。

内容的には殆どごもっともというか、 コメントにも何熱くなってるんだみたいな感想を書いている人もいるけど、 それも個性の範疇だし別に構わないと思う訳だが、 ところが一箇所、これはやってしまったというのだろうか。

13400以上のコメント全部を読み、
たくさんのコメント返しをし、
それをタダで読み楽しんでおきながら、

本音が出たのかもしれない。 とにかく、一気に醒めた感じがした。 コメントを読むのも返すのも大変だというのは分かるが、 それはブログを開いた人が勝手にやっていることだ。 別にやってくれと頼んだ訳ではないはずだが、 いや、もしかしたら読んでくださいとコメントしている人がいたのかもしれない。 いずれにしても、ここで「タダで」という感覚が出てくるという事実に現実の怖さを感じた。 会員制のサイト等ならともかく、 実際、そういう感覚でブログをオープンしている人が実在するというのは想定外だったのだ。

おそらくこの人にとって、コメントというのは、 可能なら金を受け取って読んでやり、反応してやる、という性質のものなのだ。 確かに世の中、そういう人がいても不思議ではないだろう。 私も一時期、原稿料をもらって文章を書いていたから、 世の中にはライターという職業があって、 何かを表現することで対価を受け取っている、というのは十分承知しているのだが、 グローバルにオープンなブログでそういう感覚が残っているというのが、 インターネット的にかなり意外な気がしたのだ。 あるいは、インターネット的に合わないといった感覚?

それに、私の場合、どちらかといえば「タダで読んで楽しんで…」という感覚ではなく、 むしろ「こんなどうでもよいブログにタダでコメント書いてくれてありがたいなぁ」という感じが強い。 まあもちろん、私のはどうでもよいブログであって、 「世界一小さい新聞」は非常に高い価値があって、 偉い人が書いていて、 お金を払ってでも読みたいという人が大勢いるような類のブログなのかもしれないが、 いずれにしても、 この人は、コメントをタダで書いてくださる人が大勢いてありがたいものだ、 などという感覚は微塵も持っていないのだろうと思う。

とりあえずこのブログ、二度と見に行かないことに決めた。 確かにタダかもしれないが、 私見としては、わざわざ手間をかけて見に行くような価値も時間もないので。

2008年6月27日

昔、あるところに…

じゃなくて、ユーザビリティの話。 人間の短期記憶で記憶可能なのは7つまで、という伝説があった。 日本の電話番号、昔は7桁だったのが、8桁に増やすということで、 その時に話題になったのを記憶している人も多い…と思うのだが、 なにそれ、という人がもっと多いのだろうな、最近は。

とにかく、人間がパッと見て処理できる情報の数というのは、 それほど多くないのである。

ところが、最近よく見るブログのレイアウト、 あれは何だ、 ていうか人のこと言えませんが、 バリバリのカスタマイズをたくじゃないと手が出ないような仕様だったりするので(多分)、 手を出さずに与えられたスキンを殆ど丸ごと使ったりすることが多いが、 あの情報量の多さは半端ではない。 しかもゴミ…と言っては失礼かもしれないが、ゴミだらけである。

過剰な情報が表示されたら人間はどんな反応をするか。 一部分だけ理解しようという人は、 何か理由があってそれを理解しなければならないからである。 例えばそのブログの常連だとか、 ここだけ読めばよい、というのを知っていてそこだけに注目するとか。 ブログの場合は最新の本文だけに注目する、 という人が多いのではないかと思う。

そのようなショートカットができない人はどうするか。 たくさん情報があるから便利という人はまずいない。 情報が多すぎて全体を把握できないと、 人間は、全部なかったことにする。 つまり、全く解釈できないものとして、次のブログを目指す。 見てもらえないのだ。

そういう過剰な情報に対する対策は簡単である。 Google のように、キーワードで絞り込んで検索、 これが最も効果的だと思う。 Google と Yahoo の違いであまり言われないかもしれないのは、 Google の最初のページの情報量が非常に少ないということだ。 Yahoo の最初のページ、 ポータルだから仕方ないといえばそれまでだが、 様々な情報がてんこもりである。 かたや Google、今でこそリンクが結構増えてしまって目がチカチカするのだが、 最初の頃は、まさに検索窓しかなかった。 そういった絞込みで、ユーザーの目移りを防いでいるのだ。

後発の Google が Yahoo と戦えるようになった一つの理由は、 そういう所にあるのではないか。

2008年6月26日

たまねぎのスライスを食べ過ぎて気分がオニオンになった。

2008年6月16日

某将棋打ちの人が開いているブログに 「ネットの規制を望む。」という記事を書いたために2ちゃんねるで盛り上がっているようだ。 実際何書いたのかというと、 2008-06-11に、こんなことを。

今後、加害者の極刑は当然、ナイフもネットも規制も進めて欲しい。

おやまぁ、 ナイフもネットも進めろと書いてあるようだが?

って typo ですね。 最近は2ちゃんねるも随分紳士になってきたので、 この程度の揚げ足は取るに足らないようだ。 もっと本質的なところを攻めてみよう。 例えば、こういう言葉が出てくる。

現実的に法で時間規制が難しいのなら、ネットの掲示板には匿名で投稿できないようにすべきだ。

一体どういう根拠で書いているのか全く分からないのだが、 この人によれば、

私も過去にブログで「一日に50分以上ネットをすると人間性がおかしくなる。」と書いているので賛成。

いや、書いているから賛成というのは飛躍が論理しているというか、 もしかして自己体験なのか? ひょっとして、1日50分以上将棋を打っていると、 このように非論理的なことがパッとひらめいて直感的に分かるようになるのだろうか? 凡人には訳が分からない。 まず、なぜそういう数字というか、短時間ならokで長時間ならおかしくなるのか分からない。 もちろん、50分という根拠も謎だし、 それと匿名で投稿することの関連がさらに分からない。

2ちゃんねるの反論が面白い。 一番面白いというよりも当たり前だが、

犯罪者の99パーセントはテレビ見ているだろ

いや99.8%でも当たっていると思うけど、 あと電話使っているだろ、とかね。 そういえば、 誘拐などの犯罪に電話が使われるから電話を禁止しろ、 というような話ありましたよね。

ほほぅ、2chだけでも何十万人といるのに、それの殆どが犯罪を犯すとでもいうのかい?

そうに決まっているだろ、 いや、私がそう主張しているのではなくて、 この棋士さんは、そう言っているに決まっているでしょ、という話ですよ。 何十万人はともかくとしてネット全体なんだから、 何千万人とか何億人の犯罪予備軍を何とかしろ、 という話なんですよね、棋士さん?

畠山様のような、決めつけをする人こそが、犯罪予備軍だと思います。

そうですね、 柔軟な思考ができないという点ではそうも言えるかもしれない。 でも将棋は打てるんだよね、多分。 ありゃ、名前出ちゃった、まあいいや、 ブログに自分から書いたのだし、 この人は法律で匿名禁止しろと主張している位だから、 まさか自分の名前だけ匿名にしろとは言わないだろ。

確信を持って書くが、 インターネットで情緒面は育たない、絶対に。

インターネットが単なるインフラだということが一生分からない人は結構いる。 写真を取られると寿命が縮まる、というのに近い感覚だと思う。 笑い話ではない、本気でそう思っている人は真剣なのだ。 というのは、信念というのはそれ位に凄まじいものだからだ。 例えば、この人は「電話だと意思は伝わらない」と思っているかもしれない。 ネット対戦だと将棋の勝負はできない、というのもアリそうだ。

全ての人とは言わないが、ネットの掲示板に集まる多くは犯罪予備軍だと私は思っていた。  この数年、大きな事件を起こす人は必ずネットの掲示板に書き込むからだが、今回の件でさらに強く確信した。

将棋を打つ人って、 大局観とか、部分ではなく全体を見る能力があると思っていたのだが、 そうではないのか? いや、もしかして超能力が使えるので、 他の人には知りえないような真理を知っているのだろうか。 私の知っている限り、 この数年、大きな事件を起こした人で、 ネットの掲示板に書き込んでいると報道されたのはごく一部の人だけなので、 他の人がどこに書き込んでいるのか分からないのだが、 この人は全事件の状況を把握しているのだろう。 流石は将棋のプロだ。

ただし、 ありがちなパターンなのだが、スケーラビリティが全然考慮されていない。 ネットの掲示板を使う人が何人いるかというと、 日本だけでも少なく見積もって数百万人、 mixi だけでも1千万人とかいうから、 多分数千万人というオーダーだ。 世界レベルでいうと数億人はいるだろう。 その「多く」が犯罪予備軍だというから、 日本だけでもそういう人が数千万人いるという驚愕の事実が、 将棋を指していると分かるようになるのである。 将棋って凄いなぁ。

誤解されないように書くが、私はネットを無くせと言っているのではない、今の無法地帯を規制する事を望んでいる。

無法地帯ってどこのことを言っているのか謎だが、 少なくとも私の知る限り、 日本に無法地帯の掲示板は存在しない。 この人は、 日本の重大犯罪は報道されないものも含めて全て知っているのに、 例えば2ちゃんねるにいたずらで犯罪予告を書いた人が逮捕されまくっている、 という事実を知らないのだろうか?

かりに2ちゃんねるが、 本名が書かれていないから匿名掲示板だ、 というのであれば、 いやそれは別にそうおかしくもない常識的な解釈だと思うけど、 日本の場合、 貴方達(誰?)がいうところの 匿名掲示板に書いた人は特定できますよ。 現に逮捕されているでしょ。

これが意外と本当に特定できることが多いのだ。 職場とか自宅から書き込んで「ばれないと思った」とかほざいているバカはおいといて、 例えばマンガ喫茶からインターネットを使っていてさえ特定できることが多い。

インターネットの性質上、 どこのpcから書き込んだか、ということは明確に分かる。 後は、その時間にpcを使っていたのが誰か、 ということが分かれば個人が特定できるのだが、 マンガ喫茶の場合、一般にはそれが難しいはずなのである。 多分、監視カメラが多数配置されているので、 本気で捜査したら意外と誰というのが分かってしまうだと思われる。 行きつけのマンガ喫茶がある人は、 その店にカメラがいくつあるか数えてみるとよい。

bot に仕込んで何段階にもネストさせた壁を越えて書き込むような、 本物のクラッカーが本気を出せば、 そう簡単には誰が書いたか分からないような投稿も可能なのだが、 実際、そこまで物凄いことのできるコンピュータ使いは、 世の中に報じられているようなチンケな犯罪などやらないのものである。

ま、とにかく、 将棋を打つ人がこういう発想になる というのはよく分かった。 「しおんの王」というマンガに殺人犯の棋士が出てくるのだけど、 いまいちピンと来なかったのだが、 将棋打ち的にはそういう発想がある訳だ。 考えてみれば、 将棋というのがそもそも戦争ゲームなのですよ。 相手の王を取るまで護衛を殺しまくるという感じの。 取った駒は使えるのだけど、なぜか個人的には生け捕りって感じはないよな、 やはり殺すって感じだ。 囲碁の場合は陣取りイメージが強いので暴力的な印象はあまりないのだが、 そうか、将棋は殺戮系って感じなんだ。

もちろんだが、 炎上した記事、削除されていて跡形もない。 ということで、興味があれば、 例えば痛いニュースを見て欲しい。 痛いニュース(ノ∀`):プロ棋士・畠山成幸七段「一日に50分以上ネットをすると、悪の空気が伝染し人間性がおかしくなる」→記事削除&謝罪

2008年6月11日

東京にはカラスがいっぱいると智恵子が言ったわけではないが、

今朝は珍しくゴミをカラスの集団が襲撃していた。 近付くと逃げるので面白い。 逃げるといっても、もちろん近くで見張っているのだ。 ここでバッと動くとザワッと一斉に飛び立って、少し遠くから様子を見る状態になる。

カラスの害ということで 東京都はカラスを何とか減らそうと努力していたような気がする。 実際にこうやってカラスが生ゴミをあさっているのだから、 あまり効果はないのかもしれないが、 考えてみればヘンな話ではないか。

2008年6月10日

Ruby。 mkdir_p と mkpath と makedirs の違いが分からずに悩む。

2008年6月9日

久々に forrest。 0.8にupdate してあったのだが、 裏ページの build が出来なくなっていた。 こちらで勝手に追加した内容があって、 update の時に元に戻ったためである。

document-v20.mod の内容を修正。 54行目

<!ENTITY % special-inline "br|img|icon|acronym|map|iframe">

202行目 Image Object の後に、こういうのを追加。

<!-- Iframe (added by Mai) -->
<!ELEMENT iframe (%text;)*>
<!ATTLIST iframe
  src CDATA #REQUIRED
  style CDATA #IMPLIED
  scrolling CDATA #IMPLIED
  marginwidth CDATA #IMPLIED
  marginheight CDATA #IMPLIED
  frameborder CDATA #IMPLIED
  %common.att; 
>

§

Ruby。 こういうのを作った。

1. 指定したページを get して、 その下にある img タグを抜き出し、 URL を抽出する。

つまり、そのページの画像を抜き出す、という処理ですね。 これは get したページに対して、hpricot というパーサーを使って処理した。

2. 指定した画像を get する。

これは簡単。 Mechanize を使う。 agent を次のように get してあるものとする。

agent = WWW::Mechanize.new { |a| a.log = Logger.new('mech.log') }

あとは URL が分かれば、 get して受け取った Page を save_as すればよいだけだ。

  image = agent.get(img_url)
  image.save_as(filename)

Mechanize は HTML のページを get して parse し、 form に指定した内容を突っ込んで POST する、 といった使い方が簡単にできるので便利だが、 単に画像ファイルを取り込むだけなら、 こうやって get すればいいだけである。 もちろん、受け取ったデータは parse とかできないが(画像だから)、 これをファイルに保存するのは簡単である。

わざわざ Mechanize 使わなくても、 普通に http の get すればいいではないか、 と思うかもしれないが、 request header にいろいろ指定するとか、 cookie にちゃんと対応するとか、 そのあたりを考えると Mechanize を使って単に get するというのも手である。

2008年6月8日

歩行者天国の秋葉原で無差別殺人事件が発生した。 10名が死亡したというのだが、 おそらく大半がサバイバルナイフで刺されたことによる失血死と思われる。 (追記: 後でダガーナイフという話が出てきた)

非常に多数のサイト、ブログで話題になっているので、 殆どネタは出尽くしているだろう、 というのがいつものパターンだが。

東京にオリンピックを誘致するという話がある。 一次審査は通過したというのだが、 もしかしたら、東京、いや、日本というのは、 安全な国だというようなアピールをしたのではないか。

日本が安全であるというのは別に間違っていない。 他の国に比べると犯罪発生率も非常に低い。 毎日のニュースを見ていれば、 電車の中でどこかの公務員が女性のスカートの中を撮影したとか、 そんな話ばかり出てくる。 基本的に、そういう国なのだ。

ところが、秋葉原で10人死亡という事件だ。 東京は本当にテロ対策をしているのか、と問いたい。 いずれにしても、 簡単に10人殺傷という結果を出してしまったというのは、 対策になっていなかったことの証明でしかない。 実際はコスプレパフォーマンスの取り締まりに忙しくて、 テロの対策はしていなかった、というのが真相のような気もするが、 トラックで突っ込んで何人か轢いた後でナイフを使って無差別に殺す、 という実に簡単な方法で二桁の人が死んだのである。 もしトラックではなく自爆テロだったら一体どうなっていたのか。

§

少し前に書いたので忘れていたのだが、 コトノハで「殺意を感じる」というような人が意外と多くて、 そのような感覚を持っている人の増加が殺人事件の原因になっているのではないか。 という妄想を書いた。 この時、数字が全く出せなかったのだが、 情報を教えていただいて、 要するに殺人事件は減っているという数字がある。

これは戦後の高度成長期に比べると約1/3程度の数字だ。 ただし、平成元年頃に年間に1300件程度、 最近が1100件程度だから、 その後は微減程度になっている。

折角だから数値を検討するとすれば、 まず「殺意を感じる」とか「むかつく」というような感覚を持つ人が増えているのか減っているのか、 ここが分からない。 コトノハを見ると「結構いるなぁ」という印象を感じたのだが、 もしかすると昔はもっと大勢いたかもしれないのだ。

さらに、その「殺意を感じる」という所から実際に犯行に及ぶ人はどの位いるのか、 ということも問題だ。 殺意を感じただけでは殺人事件にならないからだ。 もしかすると、ムカツく人は激増しているにもかかわらず、 ムカツいた状態で我慢できる人が増えて、 結局ムカつき安定状態で平和なのかもしれないからだ。

例えば今回の秋葉原の無差別殺人事件、 その少し前には、ホームにいる人を突き落としたという事件もあったが、 殺す相手は「誰でもよかった」という共通点がある。 この種の無差別殺人事件、はどうか。 昔に比べると増えているのか、減っているのか。

無差別殺人事件というと、 古くは辻斬りのイメージがあるのだが(古杉)、 江戸時代の辻斬りがどの程度あったのか知らないが、 それに比べると無差別殺人は減っていると思う。 問題は、明治から昭和の間と、平成になってからの比較だ。

ただ、昭和時代、特に戦後に関しては、 一応ではあるが、数字が残っている。 数字というのは、何件事件があった、という話であって、 本気で考えるのであれば、 まずこの数字が本当なのか、という所から疑ってかかる必要がある。 というか、この種の数字は、まずあてにならない。 知らない人は驚くかもしれないが、 隠蔽された事件というのは少なからずあるのだ。

昨日の事件。日曜の秋葉原、 しかも歩行者天国。晴れではないが、雨は降っていない。 TVの放送を見ると、事件後の映像ばかりである。 このベストに近いコンディションに、 事件発生のシーンを撮影している人が一人もいないというのはどういうことか。 いや、あり得ないはずだ。 あまりにリアルなので、放送を自粛したのではないかと疑ってしまう。

偶然撮影した人の映像、というのが放送されていた。 ケータイで撮影した動画っぽい。 画質が荒くて、コマ数も少ない。 数十分後に、偶然居合わせたマスコミのスタッフが撮影した画像、 というのが出てくる。 これは少し画質がいいが、 デジカメの動画機能程度の画質だと見た。

これがどこか辺境の、 駅にコンビニもないような町ならまだ分かる。 私のように日常いつでもデジカメを持ち歩いている人がいるかどうかも分からない。 そういう所で、これだけのショッキングな事件が撮影できないのは仕方ない。

しかし、そこは世界の秋葉原である。 電気街という別名もある位だ。 世界中からハイテク機器を買いに人が集まってくる、 そういう街なのである。 とうぜん、近くの店舗では、最新型のデジタルフルハイビジョンハンディムービーが売られている。 展示品だってあるだろう。 ケータイのような低画質の映像でも撮影しようという人がいるのに、 なぜそれを使って撮影した人が一人もいないのだろうか?

不自然だ。 あくまで勘だが、 おそらく撮影している人はいるのではないか。 しかし、デジタルフルハイビジョンで通り魔が通行人を無差別に刺殺する瞬間、 そんなものがあったとして、テレビで放送できるのか、 といえば多分できそうにない。

あーでも、画質落として放送すればいいか、 肝心な所にモザイク入れるなんてのは朝飯前な訳だし、 やっぱ誰も撮影していなかったのかな。

もう一つびっくりなのは、 これだけライブカメラが多数ある時代に、 秋葉原のあの交差点、 ライブカメラなかったのですかね? もしあれば、犯行現場のライブ映像が世界中に配信されていたかもしれないのだが。

しかし、じゃあ今から設置するかというと、 何かそれ目当てにトラックで突っ込んでくる奴とか居そうで何かやだな。

§

日本水泳、平泳ぎの第一人者の北島選手がスピード社の水着で泳いで世界新の記録を出した。

確か、日本のメーカーと契約している関係上、 オリンピックでは契約したメーカーの水着しか着ることができない。 もちろんオリンピックというのは商業主義の祭典だから、 マーケティング的にこれは当然のことなのだが、 北島のその後のインタビューも非常に抑えた言い方で、 まだ日本のメーカーの顔を立てた感じのするというか、 スピード社の水着でオリンピックに出るとは名言しなかったようだが、 目を見れば明らかに、本番はコレを着させろと言っていた。 そりゃいきなり 0.99 秒記録更新なんてのは、 普通じゃ考えられないことだ。

水着メーカーにも面子があるだろうが、 ここは選手も一歩引いて顔を立てているのだから、 今回は特別に好きな水着で勝負するように言うべきではないか。 何も公表とかする必要はない、 例えば選手だけに内々に通達して、本番の時にいい記録さえ出れば構わない。 もちろん、自社の水着で金が取れるというのが理想的かもしれないが、 逆に、○○の水着で泳いだから金が取れなかった、という事態を考えて欲しい。 取り返しが付かないのである。 仮にスピード社の水着でもし金が取れなかったとしても、 先のような状況に比べると、ダメージは少ないだろう。 イメージ戦略というのもある訳で、 今後のCMのためにも、やはり「金」という後押しは非常に重要なのだから。

2008年6月7日

USB扇風機がぶっ壊れた後、どうしても get できないので仕方ない、 大きなパソコン系の店に行くことにした。 とりあえずその時点で一番近そうなのが有楽町のビックカメラなので、 そこに行って、 帰りに東京駅まで歩いてインディアンカレーを食べてくる、という段取り。

JRの有楽町と東京は、結構近いのである。 しかも、ビックカメラの別館は有楽町北口、 インディアンカレーは東京駅の南口なので、 さらに近い感がある。

インディアンカレー、 高校生のときは500円で食べたような気がするのだが、 ライス大盛り、ルー大盛りにしたら980円だった。

2008年6月6日

何の操作をしたらそうなるのか知りませんが、 Eclipse で、 Ruby のプロジェクト内のフォルダの下のファイルが全部いきなり消えた。 「undo できません」のような警告が出たような気がした。

まあバックアップ取ってあったので大したことはない。 作業的にロスタイムも1時間もかからず復元できた。

2008年6月4日

Ruby 1.8.7 正式版がリリースされたのでインストールした。

mechanize のコードを少し直接修正していたのを忘れてインストールし直したものだから、 修正箇所が元に戻ってしまった。 MIFES のバックアップファイルから復元できたのがラッキー。

2008年6月2日

「漫画は何歳までに卒業すればいいのだろうか?」というコトがあったので、 本と同じだとすれば40歳あたりかなぁ、ということで○を付けたのだが、 このコトに「何で卒業」という人が思いがけずビビる位多かったので、 なぜかを考えてみた。

卒業といえば、 当然連想するのは「学校」である。 生涯学習という言葉がある位で、 学ぶという行為に終わりはないという考え方もある意味正しい。

しかし残念ながら人生には必ず終わりがある。 人は必ず死ぬのだ。

そこで、人生のどのあたりで勝負に出るか、 RPG 風に言えば、どの程度キャラを育てたら冒険に出るか、 という判断が重要になる。

生き方は人それぞれだが、 織田信長といえば敦盛で「人生五十年」という言葉が思い浮かぶが、 50年で game over に到達するには何歳の時に何を、 というようなシナリオを描いておくのも一つのやり方である。 一生修行というのも真理だが、 ある程度の技が身についたら一人前、そこで卒業、 しかしそれは新たなる戦いの始まりに過ぎない、 という考え方が分かりやすいだろう。

もう一つ有名な言葉を紹介しておこう。 論語。孔子である。

子曰、吾十有五而志於学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。 (為政第二の四)

今時の若い人に通じるように雰囲気を超訳すると、こんな感じ?

15で上京してさ、 30で事業初めた。 いろいろヤバかったけど、40で何とか騙されなくなった。 50になったら、日本ってこの程度かと思った。 60になってソレはソレということの本当の意味を知り、 70でやっと、ネットで好き放題書いても炎上しなくなった。

孔子さんが言ったのとはかなり違うけど、 いや違うか、まあいいさ。 とりあえずここでのポイントは、 30歳あたりで参戦して揉まれて経験を積めば、 40歳で十分ガチで戦えるようになるという時間感覚である。 その先は難しすぎるので、 若い皆さんは当分パスしておいていい。

さて、ここで本題に戻って、漫画を卒業するというのは何かという話。

私は以前から、漫画もそうでない書籍も特に区別はしていない。 だから、 何歳で本を卒業するか、という言葉に置き換えても同じことである。 これに関しては、答を出した先人がいる。 うろ覚えなので間違っているかもしれないが、 あえてネットで調べたりせずに書いてみると、 ある年齢になれば本はむしろ読まない方がいいという説があるのだ。

これが確か40歳、もしかしたら30歳だったかもしれないが、 そのあたりだったと思う。

30か40って、 10歳も違ったら大変なことだが、 個人差も大きかろうし、 個人的に何歳か決めろといわれたら40歳か。 というか30歳だとちょっと無理っぽい。 読みきれない。 ということで40歳。

もちろん本にしても漫画にしても、 一生読み続けたければ、死ぬまで読み続けてよい。 そもそも娯楽・快楽のために読むのならその方が正解かもしれない。

しかし、本やマンガには、もう一つの読み方がある。 つまり、先人の轍を見て知恵を吸収し、自分がどう生きるかという指針とする。 抽象的に言うならば、 知識を吸収するための手段である。 と書くと大袈裟なんだけど、 要するに、何かを身につけるために読むという読み方のことだ。 ヒントのために読むのだ。

多分、年配の人ほど、 漫画は所詮漫画だろ、と軽く見ているのではないかと思うのだが、 先程も書いたように、私の経験では本と漫画、そう差はない。 だから、マンガをテキトーに読んで笑っておしまい、というのでも別に構わないが、 何となく勿体無いような気がする。

さて、その「もう一つの読み方」をする場合は、 よし分かった、となったときに老衰で寿命でした、となると笑い話だ。 全然間に合っていない。 最初に書いたように、 人生の勝負に出る時点で、 ある程度「分かった」というレベルに到達している必要がある。

既に本も漫画も膨大な数のモノがあるので、全て読むのは不可能だし、 もちろん全て読む必要もない。 となると、偶然に頼って邂逅を期待するしかないかもしれないが、 全ての本に異なる内容が書かれているかというと、そうでもない。

全ての人が異なる人格を持つのと同じように、 全ての本は確かに異なっている。 しかし、似た人がいるように、似た本もたくさんあって、 それも非常に多い。 全ての本を読まないとこの世界を完璧に理解できないかというと、 ある程度読み込んだときに、よし9割分かったとか、 99%理解した、というようなレベルに到達することは可能だ。

ここのレベル感を「卒業する」と表現しているのである。

そのためには何冊読まないといけないのだろう、 という話は必ず出てくる。

ある程度読むと、似た本とか似た漫画が意外と多いことに気付く。 微妙な違いはあるかもしれないが、 大筋はどこかで見たような、というアレだ。 そうなってくると、自分では気付いていないかもしれないが、 実際はもう漫画をある意味卒業しているのである。

学校だって、小学校、中学校、高校、大学、と段階があるが、 本とか漫画の場合、どこで卒業かというと、 他人に「おすすめの本を百冊」紹介できるようになったら、中学校卒業レベルだと思う。 高校レベルというのがちょっと思いつかないが、 大学レベルというのは、何か新しい本を読んだときに、 これは以前読んだアレとアレに似ている、 というような判断ができるようになった時だろうか。

話を少し戻す。 ある年齢になれば本は読まない方がいいという話を紹介した。 これは、もう読む必要がないという訳ではなく、 本を読んで自分がブレるのが怖いということらしい。 つまり、ある程度の知識を get すれば、 そこからは自力で勝負できるはずだし、その方がいいという主張だ。 いつまでも本を読むことはそう悪くないように思うかもしれないが、 本の力というのは結構絶大で、 余計なものを見てしまったために、自分の方向がブレることがよくあるのだ。

もちろん、それも一興、風吹かば吹け、というのもアリかもしれないが、 社会において、それが失敗の原因になりがちだ、 というのが識者の言うところの「読まない方がいい」理由だったと思う。 いつまでも本に頼っていたら、有限の人生の中、自分のストーリー作りに間に合わないぞ、 という厳しいアドバイスだと解釈している。

先人のロジックやメソッドを吸収したら、 次は自分を世界にアピールするためのステージに進むのがよい。 今だとおあつらえ向きに、 インターネットという強力なインフラだってあるのだし、 他人の表現を吸収するだけではなく、 自分を表現するという、次のステージに出るのは実に簡単な時代なのだ。

さて、こんなことを書いてしまったので、 じゃあ100冊紹介してみろと言われそうな気がしてきた。 もちろん、本だって漫画だって、100冊紹介するのは簡単…いや、 絞り込むのは結構大変かもしれないぞ、これは。 暇があったらお盆休み頃に発表するつもりでちょっと考えてみたい。