2007年9月のアレ
2007年9月27日
JSF のログインページでユーザ名とパスワードを入れても、 一度目は何も起こらない、 二度目にログインできる。 ヘンじゃないか、という件。
これが自分の環境だとなかなか再現しないのだが、 原因は殆どこれだというのが分かった。 JSF の session 管理の話なのである。
このログインページは JSF のページで、 実際は JSP で書いてあるのだが、 従って、username と password は、 Managed bean 経由でアプリケーションに引き渡すような書き方になっている。 この bean はどこで生成されるかというと、 最初にログインページを開いたときに、 Render phase のところで作られるのだと思う。
この画面ですぐにログインすれば問題ないのだが、 設定にも依存するが、30分とか1時間そのまま放置してしまうと、 tomcat が timeout になって session を廃棄してしまう。 即ち、JSF のビューの情報とか、全て消滅するので、 ユーザ名とかパスワードを入れても何も処理されない。 id が消滅しているので、 phase が 1 から 6 にいきなり飛んでしまうのだ。
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先に書いておくけど、 三宅島でレースやるという話には個人的には反対である。 イベントによる島への収入増とか、 経済効果とか、 そのような話は分かっている。 ただ、それを差し引いても、 貴重な自然が残っている環境をわざわざ排気ガス撒き散らして環境破壊するようなイベントを行う必然性があるのか?
仮に自転車レースだとしても、 報道各社が殺到したりするだけでも好ましくないことが歴然としていると思うのだ。 ていうか、どうせやるならもう環境破壊し尽くされている23区内でやればいいじゃない? 首都高バトルって話なかったっけ?
さて、 「ホンダがキレた都知事の発言 - 惰眠 【 みんカラ 】 ブログ」に書かれているのだが、 又聞きになってしまうが、 石原氏はこう言ったそうだ。
来年からは、そこ(公道)でレースをやるつもりでおります。 人が死んだから一切物事をやらないということだったら、何の進歩も何もないでしょう
これに対するホンダの広報の談。
参加者が、最悪、死亡してもしょうがないと取れる発言をされた。
ハァ?
もしその箇所を指してのコメントだとしたら、 それってかなり猛烈な極論じゃないか、 いや、詭弁というか、最初から「やらない」という結論があって、 後から理由を考えたみたいな感じがするけど。 普通は先の石原氏の発言は、 不幸にも死者が出たりしたら、 その原因を排除して、より安全な工夫を凝らした上で再開する、 という意味に解釈するのが常識だと思うのだが、 それはそうとして、
ブログの方には、 こう書かれている。
ボクシングだって時々競技者が死ぬわけですよ。
うん。死にますよね。 ボクシングに限らず、 マラソンだって、トライアスロンだって、 たまに死者出てる。 さらに、
少なくとも近代ボクシングは人死に出すのが目的でもなければ、 競技者が死ぬかもしれないから観客が興奮してるわけでもないでしょー。
全く同感だ。 しかしちょっと解せないのは、 なぜここでボクシングが出てくるのか、ということだ。 比喩としては別に構わないかもしれないけど、 折角だから、レースの話をしましょうよ。
F1レースでレーサーが死んだ事故で自分的に最も有名だと思うのは、 1994年5月1日。 セナ様がコースアウトしてコンクリート壁に直撃した事故だろう。 何でこんな所がコンクリートなんだ、と思ったものだ。 確か後ろをM.シューマッハが走っていて、 信じられないというようなコメントをしていた。
レーサー以外の死亡事故を調べてみたが、 2001年、オーストラリアグランプリでホイールがマーシャルを直撃して死亡する事故があったようだ。 この時、観客も怪我をしたが、死者は出ていないようだ。 2000年にもクラッシュ時に飛んだタイヤがマーシャルを直撃して死亡する事故があった。 日本のF1レースでは、 1997年に立ち入り禁止区域内に入っていた観客に車が突っ込んで死者が出たことがある。 これはそんな所に人がいるのもおかしいのだが、 普通に観戦している人が死んだ例は見つからなかった。
観客が巻き添えを食う例が多いのは、 やはりラリー系のレースのようだ。 今年の8月25日、全日本ラリーでガードレールに衝突した車の巻き添えで、 報道の人が3名重傷になっている。 他には、2006年のダカールラリーが連日で観客に死者が出たため中止になっている。
そこで、紹介したブログの記事に戻ってみる。
最初っから人命にかかわるヤバい要素があると明らかに分かっていて、 どう対策すればいいか分かってて、でもその対策を実施することができないことも分かってて。
全日本ラリーの話を考えてみる。 その大会は、 対策を実施することができないことも分かってて 開催したのだろうか? だったら、 「なんだ、東京以外なら日本でもやってるじゃん」という話になるね。 本当に、東京じゃなければ構わない、 という人もいるかもしれないが。
あるいは、 対策を実施したが想定外のことが発生したのであって、これは不可抗力なのだ ということだろうか? もしそうなら、 レースに関しては素人だけど一言いいたい。 公道を走るレースや、ラリーのように観客が道路にかなり接近して観るようなレース、 これは車がコースアウトしたら死者が出る可能性は確実にありますね。 絶対にここ数年で何人も死んでいるのだから、実証されていることになる。
じゃあラリー止めようよ、 という声もあるはずだが、 実際は毎年ラリーは行われていて、 毎年けが人が出ている。 なぜなんだろうか?
一ついえるのは、 観客とか、禁止区域に入ったカメラマンとか、 ここに車突っ込んだら俺死ぬよな、 というのは十分分かっていたのではないか。 それも承知の上でそれでも観たいのであれば、 そういうのもアリかなと思う。
都知事の発言に戻ると 「人が死んだから一切物事をやらない」というのであれば、 日本ではカーレース、オートバイレースは一切禁止すべきだと思う。
ところで、最悪、死亡してもしょうがないと取れる発言 って一体どこなんだろうか。 知事の発言でこの中にそのような曲解があるのではないかと妄想してみた部分、 全て引用させていただく。 原文は「石原知事記者会見(平成19年7月27日)|東京都」。 これを見て分かるように、 都知事は「危険のない公道で」と言っている訳なのだが、 そのあたりどうなんだろうか?
やります。それで、人に迷惑かけない、危険のない公道で使います。たまたま、そういうものがありますから、あそこには。
それから、断っておきますけどね、危険なことは、危険なのはわかっているし、それはマン島でもこの間亡くなった、人が。だから公道レースが危ないというけど、しかしやっぱりサーキットだって人は死んでいるわけですよ。それはね、みんな危険覚悟でやっているんです。そこにやっぱり人間の面白さ、意味があるんでね。人が死んだから一切物事をやらないということだったら、何の進歩も何もないでしょう。私はね、そこら辺が人間の何ていうのかな、面白さの問題でね、要するに昔は、ろくなギアもなかったころでも、ちゃちな酸素ボンベでみんなヒマラヤを目指した。ヘルマン・ブール(オーストリアの登山家)なんて人は、とにかく、知っているかどうか知らんけども、8000メートル級の山を初登はんというのは全部無酸素でやったんだから。マロリー(ジョージ・マロリー:イギリスの登山家)じゃないけどね、何でそんな危険な山に登るんだと言ったら、そこに山があるからだと。そこにやっぱり人間のなんか進歩のエネルギーの源泉があるんでね。
私はね、危険だから一切やるなという論は、これはやっぱり自己責任の問題ですからね。非常に危険なね、何ていうのか、絶対やっちゃいけないもんだったらやりませんよ。ただやっぱり、皆さんご存じかどうか知らぬけどホイットブレッド(現ボルボ・オーシャンレース)っていう、アメリカズカップなんて屁みたいなものだ、あんなものは。ホイットブレッドこそ、本当のヨットレースだと私は思いますけどね。
やっぱりケープタウン(南アフリカ共和国)から、要するにかつてのレースはシドニー(オーストラリア)までの、南氷洋をかすめていくレースというのは氷山があったりしてね、非常に危険な、随分そこで人が亡くなったんですよ。殺すほうの確率が高過ぎるから、今度はね、日本もエントリーしますけども、そのコースはちょっと変えてですね、何かもうちょっと北側、つまり暖かいところを通らざるを得ないシフトにしましたけども。でもやっぱりね、それでもそれに挑むということでね、たかだかヨットかもしらんけど、そういったもののギアも変わってくるし、技術も変わってくるし。
僕はやっぱりチャレンジってことを忘れたら、人間というのは進歩はないと思いますよ。ヒューマニズムのセンチメント(感情)でね、危ないからやめろ、人が死んだからやめろということでは、物事は全然というか、野球だって人は死ぬことだってあるしね。私は危険だからすべてそういうことをやっちゃいけないとは、戦争絶対反対という理念とはちょっと、要するに重なり切れないものがあると思うんだ。平和の中で行われるイベントでね、人間が肉体的試練を超えてチャレンジするというところに人間の面白さ、美しさがあるんでね、人間の進歩というのはそういうところから出てきたんじゃないでしょうか。
2007年9月25日
先にも紹介した「阿曽山大噴火コラム「裁判Showに行こう」」、 自演してると思って誤爆しただけ
この手の事件は若い被告人が多いんだけど、本件は45歳だからね。物事の分別はつくだろうに。
知ってて書いているのだと思うけど、 分別つきません。 そういう人がいるのです。 稀かもしれませんが、実際いるのです。 分別がつくようならそんなことしないのです。
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ココログがシステムトラブル。 2007-09-24 21:43~23:13。 最近、珍しい。
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福田内閣発足。 全て事前のシナリオ通りである。 衆議院で福田氏が氏名され、 参議院で小沢氏が指名される。 衆議院と参議院で違う人なので、 会議を行って、決まらない場合には憲法の規定により、 衆議院で氏名された人が首相になる。
で、民主党の小沢氏が参院で首相に指名されたというので、 お祭り騒ぎだ。 ふざけるなと言いたい。
最初から福田氏が首相になるのは分かりきっているのである。 それでなくても国会で議論する時間がないほど議案が山積みなのに、 わざわざ1日もかけて、その分給料丸儲けですか。 税金をそういう使い方していて「無駄遣いをなくす」という白々しいことを言わないでください。 本気なら、さっさと一瞬で済ませろ。 負けるのが分かっていて税金の無駄遣いするような野党は、 今信頼でない与党よりも、もっと信用できない。 財務状況が逼迫しているという危機感がまるでない。
まあでも、1%の可能性もないとは思うが、 小沢氏が首相という線もあるかと期待したんですけどね。 自民党の総裁選に福田氏が出てきたときに福田氏の勝利は確定した訳だから、 その後の動きが問題である。 自民から麻生氏を引き抜いて、 民主 + 麻生支持で新党結成していたら、政権取れていたぞ。 裏工作とか、多少の根回し位はしたのか?
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労働者は死語という話題、 例のブログに出ていた。 死語だろ。 今問題なのは、多分、 仕事しないだけでなく、 何とか働かずに金をgetできないか、という発想の人が大勢いることだ。 例えば、社会保険庁に就職できれば、 横領で大金を get できるし、 多分告訴もされないから、前科も付かずに済む。 一年に数日出勤して、残りは病欠扱いで給料を貰える役所もあったよね。 そういう生活を夢見ているのではないか、 今の若者は。
結局、滅びても別にいいんじゃね? 日本。 多分、全員死に絶えたら誰も困る人もいないぞ。
2007年9月24日
バーミヤンでラーメンを食べた。 壁に掲げてあるモットーには「速い」と書いてあるのだが、 入り口のところでしこたま待たされた後、 席についてからさらに10分ほど待たされた。 座席を見た感じ、そんなに混んでいる感じではないから、 スタッフが足りずにリクエストをさばききれていない状態のようだ。 休日の昼とか、特にそうなっているのかもしれない。
1、2か月ほど前のことだったと思うが、 バーミヤンに若い女性二人で入っている客を見た。 二人が食べていたのはバーミヤンラーメンで、 税込み399円。 それだけなら単にバーミヤンラーメン好きという解釈もない訳ではないが、 しかも、一人だけドリンクバーを頼んでいて、 それを二人でシェアするという豪快な反則技を使っていたから、 生活費を節約している可能性の方が高いかもしれない。
それだけならよくある事(でもないが)なので、 忘れてしまいそうなものだが、 なぜ覚えているかというと、 二人がタバコを吸っていたのである。
私は喫煙経験が全くないので分からんが、 そこまで節約してまで、高いタバコを吸いたいのか、 という所にある意味感動した。 生活レベルがもう1レベル下がったらどうなるのだろう?
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バーミヤンで隣に座っていたのは、 若いお母さんと、小さい女の子二人である。 片方は幼稚園程度、もう片方はそれ未満だと思われる。 ちょっとしたことで小さい方が泣いたので、 お母さんが「泣かちゃだめと言ってるでしょ」と怒るのだが。
小さい子は確かにすぐ泣くものだが、 泣いてはいけないとしつけるもの(べき)なのだろうか? 泣くというのは感情表現の一種であるという意味で、 別にそれを禁止する程のことはないと思うのだが。
古田も記者会見で泣いてたし。
イザという時のためにとっておけ、 という意味であれば分かる。 特に女の子の場合はそうかもしれないが、 まだちょっとその技を使うには早すぎる。
見方を変えると、 泣かれたら五月蝿いとか、 うっとおしとい、とか、そういう側面はある。 個人的には子供が泣いていても全く平気なタイプなので、 その技は私には効かないのだが、 確かに食堂のような所で大声で泣かれたら親は困るのだろう。 前述の女の子はべそをかいていた程度なので、 周囲の人も殆ど気付いていなかったと思う。
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もう一つバーミヤンでの話。 女性がラーメン食べている姿が前かがみで、 どうもみっともない。 男性だってみっともないのだが、 女性の場合、3割増程度でみっともない感が増幅しているような気がする。 ラーメン食べるときに、顔をどんぶりの真上に持っていった方が、いろいろな意味で適切である、 というのは分かる。 あとは単に見た目だけの話なのだが。
というか、 20年ほど前だって、 ラーメン食べる女性はたくさんいたと思うのだけど、 そんなに前かがみになっていなかったと思うのだ。 お上品に、という訳でもないのだが、 何かちょっと違うような気がしたので書いておく。
2007年9月23日
借りたいので図書館に予約してある本。
「成功はゴミ箱の中に-レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男-マクドナルド」15人待ち。 「PLANNING HACKS!-企画ハック! 凡人をヒットメーカーに変える企画生」2人待ち。 「できる人の勉強法-どんな試験も合格する! 短時間で成果をあげる-」85人待ち。 「できる人の教え方-みんなが分かる!- 予約中」11人待ち。 「ホームレス中学生」98人待ち。
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コトノハとか見てると、 二者択一の回答ができない設問が意外と多いことに気付く。
例えば「昨日乗った電車は私鉄」のような設問だ。 回答がないというよりは、 背景とか前提条件によって回答が変化するのだ。 「どちらともいえない」という回答しかできないのだが、 コトノハは「○」「×」のどちらかを選択しなければならないから、 適切でなくてもそのときの気分でとりあえずどちらかを選択する。
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なぞなぞ。 新幹線の品川駅、ドアが開くのはどちら側でしょうか。 1.みぎがわ。2.ひだりがわ。3.しながわ。
特に答えはないからその時の気分でフォロー。
で、品川駅。 昔は新幹線は停まらなかった。 今は停まるので確かにちょっと便利である。 でも、無茶苦茶便利なのかというと、 そうではない。 ちょっと程度だ。
新幹線を止めるために大金を注ぎ込んでいるはずだが、 その収支は一体どうなっているのだろうか?
不勉強というか世間に疎いというか、 「のぞみ」に自由席があるというのを知らなかった。
§
自民党総裁選、 福田氏の勝利。 寒いが一応書いておく。 麻生氏事務所。
「先生、残念ですが福田氏になりました。」
「あ、そう。」
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(やめておけばよかった?)
2007年9月22日
向かい側のホームの地下鉄が警笛を鳴らして入ってきたかと思ったら、 駅に半分ほど入ったところで停車してしまった。 こりゃヤバいんじゃないかと思ったら、 こちらの地下鉄もトンネルの中で止まってしまった。 てな訳で書いているのがコレ。
2007年9月21日
School Days の放送停止事件。 YouTube にゲームの bad ending が登録されていて、 結構カウンタが回っている。
斧じゃなくて鉈なのである。
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TV で麻生・福田対談をやっていたが、 やはり麻生氏、総理にはもったいない。 あれだけキレる(と書いたら今は違う意味に解釈されてしまうかもしれないが、利発なという意味)人なんだから、 トップよりも実務の方が実力発揮できるのではないか。 首相は福田氏、官房長官もしくは影の首相が麻生氏、というのが適任ではないだろうか。
§
著作権法を変更して、 違法で掲示された著作物をダウンロードした場合は、 私的利用でも違法、という案が出ているそうだ。 個人的には、これは賛成である。 ただし、 そこにコピーされているのが 著作権を侵害したデータであることを知りながらダウンロードした場合の話だ。
もう一つ条件がある。 インターネットというインフラが普通になった現在、 有線送信権で縛りすぎるのは、 文化の発展を阻害しすぎる。 音楽の場合、公共の場所で無償で演奏しても、著作権侵害にはならない。 同様に、インターネット上で無償で演奏しても、著作権侵害にならないように法改正すべきである。 また、無償で提供するのであれば、 既に放送され、あるいは公開された著作物は、 インターネット上に無償で公開することができるようにするというのはどうだろうか。
例えば、TVで放送されたような番組は、 非営利である限りインターネット上で公開してもいい、というような方向である。 ただし、TVで放送する側の利益の問題もあるから、 条件は付けてもいい。 例えば、 内容を編集してはいけないことにする。 もっと具体的にいえば、CMをカットしてはいけないことにする、等。
有償で(例えばスクランブル)公開された著作物を公開する場合は、 それを第三者が get するときに、 元の著作物を利用するときに支払う場合と同等の対価を徴収し、 著作権者に支払わなければならない。 とか。
要するに、1回見るのに100円という映画を公開する場合は、 1回のアクセスごとに100円を徴収して、 権利者に支払え、ということにすればどうだろう。
ていうか、 Web にはリンクという便利なワザがあるのだから、 動画をいちいちコピーしなくても、 権利者がそれなりにうまく公開して、 リンクフリーにしておけば、 簡単に丸くおさまるような気もするのだが。
2007年9月14日
昼飯を食いにカレー屋に入ったら、 隣のテーブルでオブジェクト指向プログラミングの話をしていた。 Java とか C++ とか C# とかはともかく、D言語まで出てくるというのは一体どういう仕事しているのか?
3か月後にコード見たら…という話。 面白い。
2007年9月9日
相手は4人組の若者っぽい人達。 電車の中で私が使っているpcの画面に、 先頭を歩いていた人のカバンがガツッと当たった。 音がしたので気付いたと思うのだが、 一言もなし。 後に続いていた人達も一言もなし。 もっとも「こんな所でパソコン使うな」といわれそうで怖い。
美しい国、日本。(心除く)
これ江戸時代だったら鞘当だとか何とかで騒ぎになって、 もしかしたら 2、3人死んでいるかもしれない。
もっとも、とりあえず、 前に座っている人がもっている「じゃがりこ明太子味」がスゴく気になっていて、 それどころではない。
§
BOM に気付かずに1時間ほど悩む。 これって BOM がエディタとかで見えていないというのが非常に大きな原因だと思うのだが、 MIFES8 でこれを表示するにはどうすればいいのだろうか?
2007年9月8日
突発的にデモするということで、 MyFaces の FileUpload 系の処理を書いている。 というか、前から書いてあったものを使うのだが、 一つのページに2つ upload したい箇所がある場合の処理がうまく書けない。 いや、私のやり方がいかんのかもしれないが。
つまり、こういうこと。 画像の upload のようなページがあるとして、 よくある感じの、 ファイルを指定して[送信]を押せば upload できる、 という仕組み。 これは MyFaces を使えば簡単にできる。 (org.apache.myfaces.custom.fileupload のあたり)
私がよく失敗するのが、 jsf の h:form のところ。 次のように enctype を指定しないと upload できない。 これを忘れてハマることがあった。
<h:form enctype="multipart/form-data">
さて、これで upload したデータは 受取側のメソッドで、 org.apache.myfaces.custom.fileupload.UploadedFile のインスタンスを使って受け取るのだが、 複数の[送信]ボタンがあったときに、 どのボタンが押されたのかを識別したいのだが、 それが分からない。
1つのページにそんなボタンがいくつもあるのが悪い、 別ページにすればよかろう、 と言われるかもしれないが、 確かにそれはもっともだと思う。 最終的にUIを向上するという意味でもそちらに向かうと思うのだが、 もし仮に複数のボタンで upload させたいなんてことがあったら、 どうすればいいのだろうか?
もちろん、ボタンを押したときの action を別にする、 というやり方はありそうだが。
2007年9月7日
暮らし・建築文化崩壊元年(1)2007年、わが国建築文化の崩壊が始まった。その元凶は を読んで、 ああこれはもっともだ、 なかなかいいことを言う、 と思ったので、 珍しく「この記事が気に入ったらクリック」 というボタンを押してみた。
エラーです
教訓: 慣れないことはするものではない。
なお、40分ほど後でクリックしたら正常に実行できたようだ。
§
「無用の人」の感想、 続き。
昨今、残忍な事件が多いせいかもしれないが、 刑罰を「応報」と誤解したコメントをよく見る。 曰く「悪い事をしたのだから、それと同じくらい辛い目に遭うのは当然」と いうものである。
それはちょっと賛成できない。 倍返しとか三倍返しという言葉があるが、 いけないことをした側が、 された側と同じくらいの辛い目で済んでしまうというのは納得できないのだ。 むしろ、数倍辛い目にあっても当然だろうと思う。
しかし、された側が「悪いことをしたのだから倍の辛い目に」というのも何かヘンだ。 それはあくまで、した側からそうすべき性質のものである。 つまり、 加害者が「自分は悪いことをしたのだから、その何倍も辛い目にあうのは当然」 だと考えるのは当然のことだが、 被害者がそう望むというのは、筋が違うような気がする。 ただ、筋はともかく、その権利はあるのかもしれない。
347.
いったい、人と人間の違いは何だろう。
人として生まれた限り、彼は猫でも犬でも無い。
死ぬまで人は人である。
しかし、人間は違う。
人間とは、人が人との関わりを持ち、初めて人間に成れるものだと
私は思う。
カムイ外伝に、 盗賊を裏切った男が最後に改心して殺されるシーンがある。 確か、 人間はやり直すことができると言って死んでしまうのだが、 そう言い残したところで人生が終わってしまうというあたり、 奥が深い。
ところで、いわゆる犯罪者と呼ばれる人は一体どの程度いるのだろうか? 大雑把だが、 有罪確定人員比率が、10万人に対して50~100あたりだという。 単純計算すると、1000~2000人に一人ということになる。 これは1年あたりの数だから、 前科がある人の数を仮に10倍(10年分)とすれば、 100~200人に一人は前科があることになる。
2007年9月6日
「無用の人」を読んで。
何度も言うように誰もが「犯罪を起こす可能性」を持っている。 そう考えると「犯罪を起こした人」についてだけ 「起こさない保証」を求めるのはおかしいし、 又、そのような保証など出来るものではない。
http://www1.odn.ne.jp/~ceo33960/pre/essay/data/essay008.html
可能性の有無だけを考えるなら確かにそうだ。 誰だって犯罪を起こす可能性は持っている。 ただ、実際に犯罪を起こす確率は恐ろしく違うのではないか。
簡単にいえば、 犯罪など起こすなどもっての他で、 人生は善良で生きるべきであり、 たとえ餓死しようが盗みなどしたくない、 という人がいたとする。 そういう人が盗みをする可能性は極めて限りなく低いのである。 借金が返せないので自殺してしまう人、いますよね。 そのような人はどうころんでも盗みなんてできないのだ。
逆に、 犯罪は社会が悪いので俺のせいじゃない、 腹が減ったら万引きすればいい、 食えない日本にした政治家が悪い、 というような人がいたらどうか。 こういう人が盗みをする可能性は、 先の人よりも数段高い。
先の2例は極端な話だが、 子供の頃から「悪いことをしてはいけない」と刷り込まれている人は大勢いるはずで、 まだ一度も犯罪を犯して有罪になった経験のない人は、 有罪判決どころか、 逮捕されるとか、警察に連れて行かれるということ自体にすら、 強烈な抵抗感があるものだ。 これは先に紹介した人のサイトで、 同じ人が書いているのだが 「罪を犯した結果が怖いから犯さない」 という人は多いのである。
一度犯罪を犯して刑罰を経験してしまうと、 言い方はアレだが、 何事も経験することで慣れてしまうものである。 なんだ、こんなものか、というような慣れ感覚も無視できないし、 一度有罪判決が出て前科が付いてしまったら、 もう前科があるのだから、あまり変わらない、 というような諦め感覚も出てくるかもしれない。
この方は、 「何故犯罪を起こしてはいけないのか」 という問いかけをしているのだが、 皆さんなら何と答えるだろうか?
2007年9月5日
電車が非常停止して動かない。
2007年9月2日
ジョナサンに行った。 一応分煙されているのだが、 待ち人数が多いときのスケジューリングが大変そうである。
2007年9月1日
親子丼を食べたくなった。 確かオリジン弁当にあったような気がしたので行ったのだが、 惜しい感じのメニューはあるのだが、 ずばり親子丼がない。 そこで、すぐ近くにあるほっかほっか亭に行ったら、 ズバリそのものがあった。
教訓: 記憶はあてにならない